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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

「被害者の会」の正体

『乙骨正生を弾劾する!! -悪の本質を見抜け!-』より、転載。
「創価学会被害者の会」の仮面を剥ぐ(1)
2000/09/20創価新報

山崎正友率いる「被害者の会」でナンバー2の常任幹事・山口優が逮捕

山崎正友率いる「被害者の会」「犯罪加害者の会」
ナンバー2の常任幹事・山口優が逮捕
市民監禁し「目玉や肝臓でも売れ」と恐喝
9月5日鹿児島

 山崎正友率いる“学会陥(おとしい)れの謀略集団”、いわゆる「被害者の会」で、「常任幹事」という「代表」に次ぐナンバーツーの立場にある山口優(67)が九月五日、監禁、恐喝未遂の容疑で鹿児島県警などに逮捕された。
 この事件は地元鹿児島では同日夕方のテレビ・ニュースで流れ、翌日の朝刊でも大きく扱われた。
 それらの報道によると、山口は暴力団幹部ら六人と共謀し、今年八月、鹿児島市内の会社経営者の事務所に押し掛け、同経営者を約十四時間にわたって監禁し、「今すぐ千二百万円を支払え。保険をかけて死ね。目玉や肝臓でも売れ」などと脅し、恐喝した疑い。

 山口は、鹿児島県議を一期やったあと平成三年に脱会し、その直後の県議選で落選。それ以降、西大宣寺(住職=芦原法雲)の法華講講頭などの立場で、ずっと反学会の嫌がらせを続けてきた。
 特に、山口は平成六年九月、山崎正友の入れ知恵で大石寺理境坊(住職=小川只道)に脱会者や「慧妙」関係者らが集まって開かれた「被害者の会」設立準備の会合に参加し、同年十一月、同会が結成されるや、幹事に就任。会合の司会や登壇者、討論会のパネリストをつとめるなど、同会の中心的役割を果たしてきた。

 本年二月、東京で行われた「被害者の会」の大会でも、山口は、「発足以来六年間で多大な成果」などと手前勝手な“経過報告”を行っている。しかし、この六年間で実際に明らかになったことと言えば、同会が仕掛けた三大デマ事件(白山信之さん名誉毀損事件東村山市議転落死事件信平狂言事件)がことごとく悪質なデッチ上げであったという事実であり、逆に同会の中核である理境坊の小川只道とその法華講員が学会員宅などを盗聴していた事実であった。
 また、同会の前代表・八尋由夫(福岡・開信寺の元講頭)が騒いでいた学会員による暴行事件もデッチ上げであることがバレ、現代表・後呂雅巳が埼玉・能安寺で講頭としてペアを組んでいた相棒の副講頭が百四十七億円の巨額詐欺事件を起こして逮捕されたことも記憶に新しい。
 加えて、今回、「被害者の会」発足以来の中心メンバーである山口が暴力団と組んで、市民を監禁し大金を脅し取ろうとしていた事実が判明したことで、この「被害者の会」が実は、デマでも盗聴でも暴力でも“なんでもする”一大「無法・犯罪・加害者」集団であるという醜悪な正体が白日の下にさらされたのである。

 大聖人は、“僣聖増上慢の出家のところに一切の悪人が包摂される”と述べた後、『即(すなわち)出家の処(ところ)に一切の悪人を摂する』等とは当世・日本国には何れの処ぞや、叡山か園城か東寺か南都か建仁寺か寿福寺か建長寺か・よくよくたづぬべし」(御書二二八ページ)と述べている。
 日顕宗の別動部隊、というより日顕宗そのものと言ってよい「被害者の会」の実態を見れば、いまの日本で“一切の悪人を摂している僣聖増上慢の処”とは、だれもが文句なく、富士宮の大石寺、阿部日顕のところと答えるであろう。

「創価学会被害者の会」の仮面を剥ぐ(2)
1995/01/18創価新報

「被害者の会」の仮面を剥ぐ
すべての報告が虚偽、スリカエ

「被害者の会」の仮面を剥ぐ
デッチ上げタレ流す“加害者の会”
すべての報告が虚偽、スリカエ
寺ぐるみで捏造した“開信寺(福岡)集団暴行事件”
法華講有志が宗務院へ告発
“警察の事情聴取で取り繕うのが大変だった”

 「火は火元から騒ぎ出す」と言うように、事件の本当の犯人(加害者)が、初めに被害者として騒ぎ出す場合は少なくない。昨年十一月、反逆退転者の竜年光らが肝入りで作った「被害者の会」などは、まさにそうした仮面仮装の“被害者”の集まりである。そこから出される“被害報告”をよく調べれば、同会がいかに事件をデッチ上げては相手を陥れ、社会にデマ情報という“公害”をタレ流しているかがよく分かる。ここでは、同会の代表をつとめる人物の“被害報告”と、同会が昨年暮れ東京で開いた第一回決起大会での主な報告を検証し、その仮面を剥(は)いでおく。

*検証(1)「被害者の会」の代表・八尋氏の場合
騒動の原因は住職の“対話拒否”
 この「被害者の会」の代表をつとめるのは、福岡市西区にある開信寺(住職=柏崎寿宣)の総代である八尋由夫氏(69)。同氏は、「学会男子部三百名による開信寺への乱入・暴行事件によって、一カ月半の入院治療という大ケガをさせられた」「診断は左膝打撲と左内側側副じん帯損傷という重傷」と言っている。
 しかし、これが全くのデッチ上げ。「被害者の会」がこの人物を代表に選んだこと自体、この会が本当はどういう性格の集まりであるかを端的に表している。
 事件の概要はこうである。平成三年四月十三日午後一時から開信寺本堂でお講が行われた。そこには、法華講員二、三十人と地元の男子部二百人弱が出席していた。
 男子部は、住職の柏崎が、宗門の命令を無視して勝手に“檀徒づくり”を進める中で、学会員に対して「学会は身延と一緒だ。ついていくと地獄に堕ちるぞ」などと脅迫していたので、なぜそんなことをいうのか、直接、住職に納得のいく説明をしてもらおうと集まっていた。
 ところが、住職は勤行終了後、男子部に「ご供養はしたのか」と声をかけることはあっても、「一切、質問には答えない」と対話を拒否。そのために、学会と法華講の双方から怒号と罵声が飛び交い、場内は騒然となった。そして寺側の連絡で午後一時半ごろ警官が一人、更に寺の従業員が前の仏壇店から、警官の増員を求めたために午後一時四十分ごろ、四、五人の警官がやってきたというもの。
 結局、双方の代表三人ずつが話し合うことで話がまとまり、午後一時五十分には、代表者を除いて全員が散会した。その間、警察が暴行の事実を確認して現行犯逮捕したこともなければ、暴行をやめるよう注意した事実すらない。警察は「代表同士で冷静になって話し合って下さい」「私たちがわざわざ来るようなことではないですから」と言って、帰っていった。

立つことも、正座もできないはずの“重傷”

 ところが八尋由夫氏側は、この日午後二時から約四十分間、代表同士で話し合った事実を徹底して隠している。なぜなら、その場に当時講頭であった同氏も住職、副講頭とともに元気に参加しているからである。
 本当に同氏の言うように一カ月半の入院治療が必要なほどの重傷を負ったならば、激痛が走り、とてもではないが話し合いには臨めないであろう。
 「側副じん帯損傷」というのは、青年期に多い膝疾患の一つで、原因は交通事故やスポーツ外傷が最も多い。じん帯損傷によって、膝がグラグラし、立つことはもちろん、正座も絶対にできないし、あぐらもきつくなるという。
 ところが、この日、同氏は代表同士の話し合いの前も本堂内を歩き回っていたし、話し合いの席についた当初はずっと正座をしていた。しばらくしてあぐらをかいたが、途中、立って中座したこともあったし、最後もまた立ち上がって別れたというのだ。全く、健康体と変わりのない身のこなしであったという。
 それもそのはず、同氏が診察を受けた病院に近い筋からの情報では、(1)同氏に外傷は全くなかった(2)入院の必要はなかったが、本人が入院したいと希望して入院した(3)入院中、これといった治療はなく、ときどき外泊もしており、本人の安静のための入院のようであった(4)診断書も本人の要望により、入院した期間が記されているだけで、一カ月半の治療が必要だったわけではない、などの事実が確認された。
 同氏の言い分は、完全なデッチ上げだったのだ。

損害賠償請求すらしない“逃げ腰”

 八尋由夫氏は、事件の翌十四日、病院に行き、そこで“外傷はなくても痛い”と言い張り全治二週間の診断書を書いてもらって、十五日、警察に被害届を出している。
 警察では、この被害届を受けて捜査を進め、双方の関係者数十人から事情聴取した。その結果、警察は同氏側に「乱入が目的ということはなさそうだし、傷害を加えたというのも不確かだ。この事件は、傷害事件としては検察に送致なんかできませんよ」と言い渡して、捜査を打ち切ってしまっているのである。
 ここで、何より不可思議なのは、「被害者の会」の代表ともあろう人物が、入院一カ月半もの重傷を負わされたと主張しているにもかかわらず、損害賠償請求の民事訴訟すら起こしていない点である。
 理由は明解である。同氏の言う「被害」は全くのデッチ上げだから、司直のメスには耐えられないということを、だれよりも本人が一番分かっているからである。
 同氏は宗門謀略機関紙「慧妙」に登場し、「我々には泣き寝入りしかないのか」などと言っているが、そんなことを言うヒマがあったら、訴訟を起こし、最後まで法廷で戦えばいいのである。
 同氏は、すべての国民に認められている裁判を受ける権利を自ら放棄する一方で、普通の人間にはなかなか出来ない、デッチ上げ情報を事件の翌日には全国の末寺にファクスで流すとか、地元テレビ局に持ち込み、事件の三日後には夕方のニュース番組のなかで取り上げてもらうなどという芸当は持ち合わせているようである。
 一般的に、ウソつきは、主張の真偽や正邪がはっきりとする司法の場では、争おうとはしないものだ。「被害者の会」代表の八尋由夫氏なる人物は、まさにそういうたぐいの代表である。

法華講内部改革派は宗務院へ「嘆願書」

 八尋由夫氏の言う「被害」がデッチ上げであることは、実は、開信寺の法華講員も認めていることである。
 というのは、事件から一年半後の平成四年秋、開信寺法華講の有志が宗務院あてに一通の「嘆願書」を出している。住職・柏崎の十六項目にも及ぶ悪行と、講頭の八尋由夫氏が講員のKさん宅に上がりこみ、酒を要求し、おれの女になれと追いかけ回すというセクハラ事件を起こし、慰謝料五十万円を支払って解決したことを告発するためである。
 そのなかで、平成三年四月の開信寺騒動にも触れ、「あの時は、御住職を守ろうとみんなどれだけ苦労し、後の本山の事情聴取、警察の事情聴取で取り繕うのが大変でしたのに、口が乾かぬまに、『法華講員が私を守らなかった』など平然と言ったりして唖然とする面持ちです」と記しているのである。
 注目すべきは、「警察の事情聴取で取り繕うのが大変でした」の下りである。八尋由夫氏が声高に叫ぶ“開信寺の乱入・暴行事件”が、完全な共同謀議によるデッチ上げであったことは、この一事からも明白であろう。
 ここに同氏の正体は、明らかになった。それは同時に、「被害者の会」の正体をも明らかにしよう。ウソつきが被害者を装った「加害者の集まり」--それが、「被害者の会」の実態なのだ。

*検証(2)第1回決起大会での“被害報告”
 代表が代表なら、会員も会員。昨年末、東京・杉並公会堂で開かれた第一回決起大会での“被害報告”も、みんな開信寺の例と同じく、ウソ、スリカエ、ゴマカシによる完全な“捏造もの”ばかりであった。

『京都在住の男女(法華講)の場合』
 昨年三月、京都市内の学会員宅に見ず知らずの法華講の若い男女二人が押し掛けたうえ、退去を求めても帰ろうとせず、男性は仰向けに寝転んでまで居座ろうとした。
 三十分以上の押し問答の後、なんとか二人が引き上げたので一家がホット一息ついていたところへ、数時間後、いきなり警察から被害届けが出ているとの連絡があったという事件。全治三日の診断書が添えてあった。
 女性が学会員から「蹴られた」と言うが、実際は指一本、触れていない。この日、法華講の二人と一家が接触したのは、居座ろうと寝転んだ男性を起こそうとしたことぐらいである。それを暴力行為だと意図的にスリカエているのだ。ちなみに二人の所属は、妙観講。こうした謀略事件を仕組まれた学会員こそ、本当の被害者である。学会員側は法華講の両名を「誣告(ぶこく)罪」「不退去罪」で告訴している。

『東京在住の女性(脱会者)の場合』
 東京在住の五十歳代の女性(昭和五十七年脱会)は、昭和五十六年に夫を亡くし生活が大変な中、財務や新聞、書籍等の購入による経済的な負担を強いられたという被害を訴えている。
 しかし、財務にせよ新聞の購入にせよ、学会では、あくまでも本人の自主性に任されている。
 この女性は「引っ越しを機に学会にお金を出すのをやめた」と述べているが、実は、引っ越す前の地域で、多数の会員から「お財布を忘れちゃったから」などと言葉巧みに、金を借り歩き、合計数十万円もの借金をして、未だに返済していないのである。
 中には、この女性から恐喝まがいの言動で大金を巻き上げられたという被害を訴える年配の婦人会員さえいる。
 財務等を強制されたと言っているこの女性が、人に強制されて動くような人間でないことは、学会が厳しく禁じている「会員間の金銭貸借」を、平気で破っているということだけで、明らかであろう。ちなみにこの女性も妙観講である。

 以上の検証からも、「被害者の会」の正体が、とんでもない「デッチ上げの会」「加害者の会」であることが明白であろう。
 「悪行猶以(なおもっ)て飽(あ)き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くる」(御書八五三ページ)--
 この御金言通り、所詮は信仰の道、常識の道を踏みはずした退転者たちが、悪質な讒言(ざんげん)によって学会を攻撃しようとしているだけである。
 こんな集団が、一部マスコミや政治勢力と結託していることこそ、日本の重大な社会問題といえよう。

「学会員から暴行受けた」は真っ赤な嘘/八尋氏とはこんな男
 (1)自分から頼んで一カ月半も偽装入院
 (2)入院中も、これといった治療なし
 (3)講中で内紛起こし講頭クビに
 (4)講員宅で女性への“セクハラ疑惑”
 (5)被害者と詐称し、会の代表に

 空席が目立ち、重苦しい雰囲気で惨々な内容だった“被害者の会”の第一回決起大会(昨年十二月二十四日、東京・杉並公会堂で)

「創価学会被害者の会」の仮面を剥ぐ(3)
1995/03/01創価新報

剥がれた“被害者の会”の化けの皮 幹事は金銭・異性問題の“常習犯”

剥がれた“被害者の会”の化けの皮
正体は多大な迷惑のかけ通し
幹事は金銭・異性問題の“常習犯”
学会に居られなくなった退転者の吹きだまり

 ウソつき集団「被害者の会」の実態は、社会にデッチ上げ情報をタレ流す“加害者の会”であるばかりでなく、学会に居られなくなった退転者の吹きだまりでもある。ここでは「被害者の会」の中核を担う幹事2人の悪事を通し、同会の反社会的体質を暴(あば)く。

 「被害者の会」に幹事として名を連ねている元都議会議員の反逆者・竜年光と、現職の福井県議会議員で退転者の田賀一成ほど、「被害者の会」の本質を象徴する人物はいないだろう。
 この二人に共通する悪事の一つは「女性問題」である。
 七十四歳になる竜は現在、妻と別居。愛人と同棲しているが、議員在職中は、なんと別の愛人と密会、ただならぬ関係に耽溺(たんでき)していたという。四十九歳のころの話である。
 宗教専門紙などに暴露された、この竜の愛人問題は有名な話で、六歳下の当時の愛人が記した日記には「今夜は二人ともはげしく青年男女の様に燃えた」「毎夜重ねる爆発が一日毎に最高だねとは先生(編集部注=竜のこと)の言葉」等々、みだらな逢瀬が赤裸々につづられている。しかも竜は、議員として支給された給与、つまり「都民の血税」の中から、この愛人に月々の“手当て”まで渡していたのである。

 一方、現職の県議会議員である田賀も、福井市議会議員時代から、数々の女性問題を起こしている。
 中でも、大阪のある女性とは、二十年以上も愛人関係にあった。四十歳前の田賀が福井市議会議員に当選して間もないころ、二人は選挙の応援先の京都で知り合った。
 ノイローゼを患(わずら)ったこの女性に、薬剤師の資格を持つ田賀は、さまざまな薬を与え、時には自ら指圧による“治療”すらしていた。田賀は、議員研修などの際も他の議員とわざわざ違うホテルにするなど、別行動を装い、時には二、三日もの間“雲隠れ”してこの女性との密会を楽しんでいた。東京での選挙応援の際には、同行したこの女性を「自分の妻」だと偽って紹介したことすらあったのである。
 公職にありながら「色欲」に狂った二人は、女性を愚弄(ぐろう)し、支持者、社会に対する重大な背信行為を犯したのである。この一事だけでも竜はこれ以上の老醜をさらけ出すことなく隠居・反省し、田賀は速やかに議員を辞職しなければならない。

 そればかりか彼らには、もう一つ共通する悪事がある。
 「金銭問題」である。
 竜は、議員を引退する前年の昭和五十九年、財団法人「土と人間の蘇生の会」を設立。この公益法人を使い、老後のための金もうけをたくらんだ。この財団の運営資金を、企業や団体などから「出資金」「寄付金」名目で漁(あさ)るようにして集め、一千万円単位の金銭を受け取っている。
 竜はこの財団を私物化し、日顕宗と結託して学会を中傷する文書を財団から発行させるなど、常軌を逸した財団経営を重ね、その後、東京都から契約を解除されているのである。
 また定年制で引退が決まったことを逆恨みし、学会に反逆して、「解散撲滅の会」なる団体を作り、あろうことか日顕と結託。学会の法定解散を求める署名集めへの“協賛金”として、一千万円の提供を受けている。とんだ“銭ゲバ老人”である。

 一方の田賀も、市民相談に訪れた支持者などに、自ら経営する薬局で販売する高額な健康器具等を言葉巧みに売り付けたり、全国身元保証協会の県代理店を開き、一口一万二千円の会費を払った顧客に平然と契約不履行を起こしたりしている。また、議員という立場を“悪用”して土地売買の仲介に入り、手数料すら取っている。
 こうした田賀の“金の亡者”ぶりは、地元誌「財界北陸」でも取り上げられ、厳しい指弾を受けたほどである。

 「女性問題」「金銭問題」を起こし、学会にいられなくなってしまうのは退転者の常だが、こんな人間を選んで幹事に据えた「被害者の会」は、何より自らが反社会的集団であることを社会に暴露しているのである。

 田賀一成
 竜年光
 “被害者の会”の昨年末の会合は空席ばかりが目立った

「創価学会被害者の会」の仮面を剥ぐ(4)
1995/03/01創価新報

馬脚あらわす“被害者の会”代表・八尋由夫

今になって左膝ではなく右膝の損傷だったと訂正

*裏目に出た「写真」「診断書」の公表
 本紙(一月十五日付)で取り上げた、「被害者の会」の代表・八尋由夫氏が“被害”を偽装していた問題について、同会の機関紙『自由の砦』(二月八日付)が本紙に一部反論。「学会報道が大嘘であることを裏付ける貴重な証拠」として同氏が片足にギプスをはめている入院中の写真と、これまで公表してこなかった入院当初の診断書(別掲)を出してきた。ところが、これがかえって同氏側の首を絞める、なんとも皮肉な結果となっている。
 まず第一に、この証拠を出したために、同氏がこれまで被害を受けたといっていた部位が間違っていたことが発覚した。
 同氏は、例えば、宗門が昨年七月に発行した写真週刊誌風パンフレットや十一月一日付『慧妙』に登場し「左膝打撲云々」の被害を訴え、また十一月七日に都内のホテルで行われた「被害者の会」の設立記者会見でも、自分の口で「左膝打撲と左内側副じん帯損傷という重傷」と言ってきた。
 ところが、今回の写真を見ると、ギプスをはめているのは右足。また当初の診断書にも「右膝打撲云々」と記されている。
 同氏は自分が“大ケガ”をしたという足が右か左かわからないほど耄碌(もうろく)したのであろうか。このことは、どう釈明しようと不自然さが残ろう。『自由の砦』の姉妹紙である『慧妙』でさえ、見るに見兼ねて入院当初の診断書の「右」の字を作為的に削って掲載したほどであった。この一事をとっても同氏のいう“被害”がいかにマユツバであるかがわかろうというものだ。

*ギプスを壊すほど“元気”だった右膝
 第二に、八尋氏側は、被害を受けた部位の訂正という大きな代償を払っても、足にギプスをはめていた事実と入院当初の診断書を公表することで、「事実は、“打撲と側副じん帯損傷により、二週間の治療を要する”との診断を受けて入院、入院中は石膏のギプスで足を固め、治療を受けていたのである」『自由の砦』二月八日付)との主張が立証されると思っているようであるが、これが全くの目算はずれ。
 まず、当初の診断書のどこに、「打撲と側副じん帯損傷」と書いてあるのか。病名は「右膝打撲内側側副靭帯断裂疑(うたがい)」とあるように、あくまでも「疑(うたがい)」である。逆に言えば「八尋氏に外傷は全くなかった」という本紙が病院に近い筋からの情報で確認した事実を裏付けているのだ。
 同情報によれば、八尋氏が外傷はなくても痛いと言い張り、入院を希望するが、単なる打撲では入院させられないので、つけた病名が「断裂『疑』であったということらしい。
 また、「二週間の治療を要する」というのもスリカエで、診断書の記述は「二週間の安静治療と観察を要する」つまり「二週間、安静にして様子をみましょう」というもので、これも「入院中、これといった治療はなかった」という本紙が確認した事実と一致する。
 では、同氏がはめていたギプスは、いったい何か。それは、安静にしていなくてはならないはずの同氏が、痛いという割りには動き回り、じっとしていないので、入院後二、三日たって膝の固定のために着けたものである。
 ところが、同氏はギプス装着後もじっとしておらず、普通ではありえないことだが、四週間後にはずす予定のギプスが二週間余りで壊れてしまい、“それならもう、ギプスをするのはやめましょう”ということになったというのが実情である。同氏の右膝は、壊れるはずのないギプスを壊すほど“元気”だったのだ。
 つまり、同氏のギプスは、本格的治療を受けていた証拠どころか、ギプスをしていないと安静状態が保てないほど元気であった証拠なのである。
 もはや、八尋氏の偽装被害を弁護しようとすればするほど、かえって墓穴を掘ることになる。「被害者の会」は、この「同会の設立趣旨にも関わる」という、代表・八尋氏の“被害”が偽装だったという不祥事の責任をとって、即刻、解散するべきであろう。

 八尋由夫代表
 入院当初の診断書(平成3年4月15日付)。病名には「断裂『疑』(うたがい)」「2週間の『安静治療』『観察』を要する」と記されている

「創価学会被害者の会」の仮面を剥ぐ(5)
2002/01/01創価新報

広布破壊の謀略集団「妙観講」の黒い実態(2) 信平狂言の“実行部隊”
平成8年2月2日函館で 信平夫婦、新潮記者と事前に謀議
機関紙(慧妙)で捏造手記を「予告」
記者会見会場も手配
山崎正友“手足”として数々の工作

 昨年5月20日、全国の妙観講員が大石寺にかき集められて行われた第23回妙観講総会。その席に、あの“虚言夫婦”がいた。信平信子と夫の醇浩である。
 講頭の大草一男は、あいさつの中で「これからも信平夫婦を応援していく」と述べたという。
 裁判所から、百万件に一件あるかないかという「訴権(裁判を起こす権利)の濫用」“断罪”された前代未聞の悪質極まる狂言事件。
 このドス黒い謀略の陰で暗躍し、騒ぎを扇動してきたのが妙観講なのである。

事実無根の作り話
 そもそも、信平の言う“3度の事件”なるものは、1から10まで、すべてが根も葉もない作り話だった。それは、事件現場なるもの自体が存在しないことを証明する当時の航空写真、被害を受けたという信子がその直後に平然とした姿で写っている写真など数々の動かぬ証拠、さらに事件があったという時間に信子がその場にいなかったとする関係者の証言など、あらゆる角度から明白であった。
 ところが、学会攻撃のためなら手段を選ばない妙観講は、この狂言騒ぎでも、“工作部隊”として動いていたのだ。
 「緊急予告 ついに発覚!!……潰滅的悪行 近く報道を開始の予定」
 「乞う御期待 本紙が発行される頃には、事件の一端が世間にも報じられ……」――。実質的に妙観講が編集している日顕“御用機関紙”「慧妙」の平成8年2月16日付1面にセンセーショナルな見出しが踊った。
 それにしても、あまりに手回しが良すぎる。
 信平信子の“狂言手記”が掲載された「週刊新潮」(2月22日号)が書店や駅売店の店頭に並んだのは2月15日の木曜日。
 新聞とはいえ、月2回刊の「慧妙」が、この予告を載せるためには、どう考えても3、4日前には、“狂言手記”掲載の情報を新潮側から入手していなければならない。
 そうでなければ「乞う御期待」などという“したり顔”の表現などできるわけがないのである。
 この「慧妙」の予告報道は、はからずも妙観講が信平の狂言に当初から深く関わっていたことを浮き彫りにしたのだ。
 それを裏付ける“重要証拠”が昨年11月に発刊された「言論のテロリズム
 週刊新潮『捏造報道事件』の顛末」
(山本栄一著)で暴露されている。
 それは、この問題で学会を攻撃するための謀議の録音記録である。

舞台裏を切り盛り

 時は、狂言手記が世に出る約2週間前の平成8年2月2日。場所は信平夫婦の住む函館。謀議のメンバーは、信平夫婦「週刊新潮」記者、そして、この場に同席していたのが妙観講副講頭の佐藤せい子と同講幹部の佐貫修一だったのである。
 この席で、新潮記者は捏造手記の掲載と、その後の狂言騒ぎについて、信平夫婦にレクチャーをしているが、その際、佐貫は「信平さん、四月会だとか(を相手にしないで)。はっきり言って、私どもで(やらせてほしい)……」などと発言。
 また、手記に続く騒ぎの第2段階としての「訴訟」の話の際には、弁護士の選定について、佐藤せい子が信平の夫・醇浩に対し、「それは、それで、相談する弁護士いますからね」などと述べている。
 「私ども」――。この佐貫の言葉は、新潮だけでなく妙観講もまた狂言騒ぎの“主犯”であったことを何よりも浮き彫りにしている。
 謀議が録音されたMD(ミニ・ディスク)は、まさに新潮・信平・妙観講の「謀略の真相を生々しく暴き出す『動かぬ証拠』である」(同著より)。
 もう一つ、“狂言事件”の舞台裏を妙観講が切り盛りしていたことを裏付ける重大な事実がある。
 平成8年2月23日、前日発売の「週刊新潮」(2月29日号)に2回目の捏造手記を掲載した信子は、手回しよく都内のホテルで記者会見を行った。
 ところが、この会見会場を予約したのは、『慧妙』編集室」。申込用紙には妙観講の所在地が記入されていたという。
 実際、会見前には、信子が、函館での謀議にも加わっていた妙観講の佐貫、会見の司会を務めた反学会の“売文屋”乙骨正生らと綿密な打ち合わせをしているのも目撃されている。
 捏造手記の前宣伝に、会見会場の申し込み――。つまり、狂言事件の“お膳立て”に奔走していたのが妙観講なのだ。
 “謀議”してきた計画通り、このデマ騒ぎをさらに増幅するために、信平一派は司法制度まで悪用。平成8年6月に、不当極まる民事訴訟を提起する。
 この裁判の過程でも、法廷に現れる信平のボディーガードを気取っていたのも妙観講員。また、毎回の口頭弁論などの後の密議の席には、信平、弁護士、乙骨、新潮記者らとともに、いつも佐貫の姿があった。佐貫という男こそ、この謀略の陰の仕掛け人である元恐喝犯・山崎正友の意のままに動く“手下”なのである。
 平成5年4月、黒羽刑務所(栃木県)を仮出所した山崎は、翌6年に宗門に復帰後、妙観講に所属する。
 3年の刑期を終えた山崎にとって、自分の策謀を実行に移すためには、どうしても“工作部隊”が必要だった。そんな山崎にとって、学会に泥を塗るためなら何でもする妙観講は、まさしく格好の“手足”となった。
 つまり、山崎の宗門復帰を許した日顕が、自らの“親衛隊”を山崎に貸し与えたも同然。その“工作部隊”の中心者が佐貫なのだ。
 事実、佐貫は前述のように、信平問題においては舞台裏を支える事務局長的存在。また、同じく山崎が仕掛け、市民団体を装った「被害者の会」を実質的に切り盛りしているのも、この佐貫である。
 まさに、信平の狂言騒ぎは、“実行犯”妙観講の存在なしには、あり得なかった話なのである。
 しかし、作り話はどこまでいっても作り話。黒い謀略は司法の手により一刀両断されたのである。

訴権の濫用と断罪

 信子の訴えはすべて門前払い。そして、残された夫・醇浩を原告とした裁判でも、東京地裁は平成12年5月30日、「(訴訟が長引けば)原告(=信平)の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」とし、「訴権の濫用」を適用し、前代未聞の狂言を却下した。
 この判決で地裁は、「慧妙」が信子の新潮手記を予告した点についても、『慧妙』の編集担当者は、『週刊新潮』の信子の手記掲載をあらかじめ認識していたことをうかがうことができる」と認定。さらに、妙観講など反学会勢力と信平の間に「一定の協力関係があることを推認することができる」“狂言事件”の舞台裏の謀略性にまで言及した。
 そして、昨年6月26日、最高裁は異例の早さで信平側の上告を棄却。根も葉もない事実無根のデマで、一人の宗教指導者を陥れようとした前代未聞の大謀略は、司法の場で木っ端みじんに“断罪”されたのである。
 こうして黒い謀略は灰燼に帰した。日顕宗の“行動部隊”として、山崎のシナリオのまま、まさに「不当な企て」に狂奔した妙観講。信平狂言は、この団体の悪辣極まる反社会性と謀略性を浮き彫りにしているのである。
 信平の捏造手記を予告する「慧妙」(平成8年2月16日付)
 信平の狂言訴訟は平成13年6月、最高裁により学会側全面勝訴で完全決着。黒い策謀は破綻した
 新潮にデマ手記を発表した信平は都内で記者会見(平成8年2月23日)。この会場を手配したのも妙観講だった


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